天養山 観音院 宝寿寺

【御詠歌】
さみだれの
あとに出たる玉の井は
白坪なる一宮かわ

弘法大師立像

木造彫眼彩色。像高36.0cm。木造素地の厨子(宮殿)に安置されており、右手に金剛杵を逆手にとり、左手は数珠をとって膝上におく通例の像容である。
足元の水瓶と沓は固定しないで台上に置かれており、厨子と大師像は江戸時代初期のものといわれている。
また、当寺のお大師さまは厄除けに霊験があるといわれており、年齢の数だけ「南無大師遍照金剛」と唱えると良いとされている。※画像1

十一面観音立像

宝寿寺が現在の場所に移転してきた当時に、地元の人々によって奉納されたものである。以来、本尊の十一面観音と同じく安産守護に御利益があると、信仰をあつめている。
大正12年3月 一切女人・国家安穏・諸願成就・安産守護のために と刻まれている。※画像2

宝寿寺の歴史・由来

往時は伊予三島水軍の菩提寺として、また、大山祇神社の別当寺として栄えていたのが宝寿寺の沿革である。
縁起によると、天平のころ聖武天皇(在位724~49)は諸国に一の宮を造営した。
その折、この地に大国主大神ら三神を祀る伊予の一の宮神社が建立され、大和の僧・道慈律師(?~744)が勅命をうけて法楽所としての別当寺を創建したのがはじめとされる。このとき天皇は『金光明最勝王経』を奉納され、寺名は「金剛宝寺」と称して、現在地ではなく中山川下流の白坪という地(現在地より約1km北に中山川があり、その北岸あたり)にあったと伝えられる。
弘法大師がこの地方を訪ねたのは大同年間(806~10)で、寺に久しく留まり聖武天皇の妃である光明皇后の姿をかたどった十一面観世音菩薩像を彫造した。これを本尊とし、寺名を「宝寿寺」と改めて霊場とされた。
また、この頃国司だった越智氏の夫人が難産で苦しんでいたので大師に祈念を頼み、大師が本尊に祈願した霊水・玉ノ井(現存しない)で加持したところ、夫人は玉のような男子を無事出産したことから安産の観音様としても信仰されたという。ただ、中山川のたび重なる洪水の被害を受け、天養2年(1145)に堂宇を再建し、山号も「天養山」と改めている。
以後、大山祇神社の別当寺として栄えたが、天正13年(1585)豊臣秀吉の四国征伐の戦禍で壊滅したが、寛永13年(1636年)宥伝上人によって当寺だけ新屋敷の現在地付近に移されて再興されたので、巡拝者は白坪の神社に札を納めた後、当寺で納経を行うこととなったが、その後の延宝7年(1679年)藩主の命により洪水を避けるために今度は神社が当寺の横に移転された。
さらに明治初頭の廃仏毀釈によって当寺は神社と分離され廃寺となったが、大石龍遍上人によって明治10年(1877年)に神社の南隣に移し再興され、大正10年(1921年)には予讃線鉄道工事にともない、さらに南側の現在地に移転した。

宝寿寺の見どころ

再興の祖:寛永13年(1636)四国遍路の行者、宥伝上人によって現在地に移転、再興された。
道標:山門を入った左手、蘇鉄の前にあった真念が建てたものは、愛媛県歴史文化博物館に移設保存されている。中務茂兵衛が254度目の遍路をした道標は山門脇にある。

第62番札所 天養山 観音院 宝寿寺
(てんようざん かんおんいん ほうじゅじ)

宗派
真言宗単立
本尊
十一面観世音菩薩
開基
聖武天皇
創建
天平年間(729〜49)
真言
おん まか きゃろにきゃ そわか

アクセス情報

所在地
〒799-1101 愛媛県西条市小松町新屋敷甲428
電話
0898-72-2210
駐車場
大型車(2台)
宿坊
なし
公式HP
なし

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