黒巌山 遍照院 大日寺

【御詠歌】
ながむれば月白妙の夜半なれや
ただ黒谷にすみぞめの袖

鐘桜門

伽藍南側に位置し、欅材を用い二層からなる鐘楼門(弁柄塗布)となっている。屋根は入母屋造り本瓦葺、大棟などには 本山東寺の寺紋が取り付けられている。上層に前山門(文久年/西暦1861年建立)にあった梵鐘を再建時に移築された。
(西暦2018年新再建)※画像1

西国三十三観音像

西国三十三観音霊場にまつわる御像が安置されている。寛政2年(1790年)前後の時期に当寺周辺に限らず西日本各地の信徒から寄進を受けて建立されている。(平成末期全御像修復)※画像2

大日寺の歴史・由来

徳島と香川県の県境にある阿讃山脈から南流する黒谷川に向かって張り出した標高70m前後の尾根の緩斜面上に南向きに伽藍が配置されている。
弘仁6年(815年)に弘法大師がこの地において大日如来を感得し、一刀三礼をして1寸8分の大日如来像を彫造したことを由来として大日寺と称するようになったと言われる。
元禄2年の『四國遍礼霊場記』(寂本1631-1701)では、かっては立派な堂塔が並んでいたものの、歳月の経過とともに、荒廃していた、と記されている。その後 応永年間(1394-1428)に松法師という人物に夢の託言があって修復がなされたという旨が『阿波史』文化12年(1815年)に記されている。その後、また荒廃したが 徳島の二代目藩主、蜂須賀忠英が慶安2年(1649年)に材木を寄進し、本堂一宇を建立して以来、 天和(1681年)・貞享(1688年)までに再興されている。その後も元禄5年(1692年)に五代目藩主蜂須賀 綱矩が、寛政11年(1799年)に11代目藩主 蜂須賀 治昭 がそれぞれにこれを修復して、今に至っている。また、この地は三方を山に囲まれており、黒谷と呼ばれていることから、地元では「黒谷寺」と呼び習わされることもあった。三号である黒巌山の由来もこのことに因んだものとされる。現在、京都の東寺の末寺としてあるがそれは明治20年以降のこと。それ以前は真言宗御室派に属していた。僧堂(庫裡)の熨斗瓦や入口の透かし欄間に寺紋の十六菊紋が見受けられる。

大日寺の見どころ

木造大日如来坐像御尊体(像高56cm、坐奥32.7cm)

通常は秘仏として護持されている御本尊であり、過去には御厨子が開扉されたことはなかった。
膝裏墨書により応永14年(1407年)に造立されてと想像される。

大日堂(本堂)

建立年代は棟札から慶安2年(1649年)である。修復を示す棟札によれば寛政11年(1799年)。建物の意匠では和様を基調とするが、粽柱、鏡天井などの禅宗様式が混在する折衷様式の建物である。密教本堂の形態をもつものとして貴重であり、蜂須賀家の紋(丸に卍)も中備蟇股(なかぞなえかえるまた)他に見られ格式の高さをうかがい知ることが出来る堂宇といえる。

弘法大師堂

建立年代は、文久3年(1863年)9月大師堂勧化帳作成と寺伝にあり、様式からも江戸時代末期と考えられる。

青面金剛尊像

木造の青面金剛尊像のは厨子に安置され厨子には文化9年(1812年)に丹波国のある人物からの寄進であることが示されている。

弥勒菩薩尊像

江戸時代に光明真言百万遍読誦記念として造立された。

手水舎 「蛤水」

手水舎の砂岩をくりぬいて造られた手水鉢には文政5年(1822年)に奉納されたとある。かっては湧水を引き込んでいたが白濁していたことから「蛤水」と呼ばれていた。

八幡祠

境内内池西側に現存する祠は、寛政12年(1800年)の「四国遍礼名所図会」に描写されているものと同一と考えられている。

第4番札所 黒巌山 遍照院 大日寺
(こくがんざん へんじょういん だいにちじ)

宗派
東寺真言宗
本尊
大日如来(伝弘法大師作)
開基
弘法大師
創建
弘仁6年(815)
真言
おん あびらうんけん ばざらだどばん

大日寺へのアクセス

所在地
〒779-0113 徳島県板野郡板野町黒谷字居内28番地
電話
088-672-1225
駐車場
普通20台・マイクロバス/大型5台 午前7時~午後5時・無料
宿坊
なし
公式HP
https://dainichiji-temple.com/
公式SNS
facebook

藍住インターチェンジから、県道1号線、県道12号線を板野・上坂町方面へ。県道34号線と交差する道を右折。バイパスや高速道路の下を直進します。
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