七宝山 神恵院

【御詠歌】
笛の音も松吹く風も琴弾くも
歌うも舞うも法の声々

本堂

2002年に新しく建立された本堂は、コンクリート打ちっぱなしで白木と組み合わされた近代的な造り。※画像1

宝物館

「釈迦涅槃像」や「琴弾八幡本地仏像図」「琴弾宮絵縁起図」など、国の重要文化財に指定された寺宝が数多く納められています。これらは、2月15日、4月8日に拝観できます。※画像2

神恵院の歴史・由来

六十八番・神恵院も六十九番・観音寺も琴弾公園内の琴弾山の中腹にあります。2つの札所が同じ境内に存在する、とても珍しい霊場です。
開基したのは法相宗の高僧・日証上人といわれています。大宝3年(703)この地で修行中、宇佐八幡宮のお告げを受け、かなたの海上で神船と琴を発見。琴弾山に引き上げ、「琴弾八幡宮」を建立して祀りました。このとき、神宮寺として建てられた寺が起源とされています。大同2年(807)弘法大師が琴弾八幡宮の本地仏である阿弥陀如来を描いて本尊として祀り、後に院号を「神恵院」とし、六十八番霊場としました。

その後、明治初年の神仏分離令で八幡宮は琴弾神社と神恵院に分離され、神恵院は麓の観音寺境内に移転。同時に八幡宮に安置されていた阿弥陀如来像も西金堂(さいこんどう)に移されました。以降、「神恵院」は西金堂(2002年に新築)を本堂に、阿弥陀如来像を本尊として今に至っています。

神恵院の見どころ

本堂・宝物館・巍巍園(ぎぎえん・山の斜面や岩石、流水を巧みに利用した回遊式庭園。第45世大政大僧正道尊和上が造ったといわれ、S51年、土砂災害により大部分を失うが、春にはツツジが美しく咲き誇ることでも有名。)

神恵院の年中行事

縁日
日時:1月16日、8月16日
護摩供養
毎月8日、27日(10:00~)

第68番札所 七宝山 神恵院
(しっぽうざん じんねいん)

宗派
真言宗大覚寺派
本尊
阿弥陀如来
開基
日証上人
創建
大宝3年(703)
真言
おん あみりた ていぜい からうん

アクセス情報

所在地
〒768-0061 香川県観音寺市八幡町1-2-7
電話
0875-25-3871
駐車場
あり
宿坊
なし
公式HP
http://www.shikoku88-6869.com/

大野原インターチェンジから高松市内向きに国道11号線・県道8号線へ。JR予讃線の踏切を越え、直進。財田川を渡れば、琴弾山麓に駐車場があります。
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小松尾山 不動光院 大興寺

【御詠歌】
植ゑ置きし小松尾寺を眺むれば
法の教への風ぞ吹きぬる

本堂の「七日燈明」

本堂で赤い蝋燭を7日間灯し祈祷していただくもの。病気平癒、安産、良縁などのご利益があります。※画像1

仁王門

風堂々とした金剛力士像は仏師として名高い運慶作と伝えられます。※画像2

大興寺の歴史・由来

地元では大興寺というより、山号にちなむ「小松尾寺」という呼称が親しまれ、近傍一帯の集落を小松尾と呼ぶ。
縁起によると、天平十四年(742)熊野三所権現鎮護のために東大寺末寺として現在地よりも約1キロ北西に建立され、延暦11年(792)大師の巡錫を仰ぎ、弘仁13年(823)嵯峨聖帝の勅により再興されたと伝えられている。しかしながら、戦国時代末、長宗我部元親の兵火により一部を残してことごとくを焼失、慶長年間(1596〜1615)に再建されたが再び焼亡、本堂は寛保元年(1741)に建立されたものである。

現在の大興寺は真言宗の寺院であるが、往時真言二十四坊天台十二坊が甍を連ね、同じ境内で真言天台二宗が兼学したという珍しい来歴を持つ。そのためか天台宗の影響が大きく、本堂に向かって左側の弘法大師堂とともに、右側に天台宗第三祖智顗を祀る天台大師堂があるという配置にその名残を留めている。また本尊脇侍は不動明王と毘沙門天であるが、不動明王は天台様式である。
香川県の文化財として指定されているのは次の5件である。1つは像高84センチの本尊藥師如來坐像で、平安後期、檜寄木造り、漆箔、伝弘法大師作。鎌倉時代後期建治2年(1276)の銘がある天台大師坐像は檜寄木造り彩色で像高77.4センチ。天台大師の彫像は極めて少ない。弘法大師坐像は近年の調査により天台大師坐像と同じ建治2年の作であることが判明し、文化財として指定された。四国最古の銘のある弘法大師像である。仁王門にある雄渾な二つの金剛力士立像は仏師として名高い運慶の作と伝えられ、像高314センチ。鎌倉初期の作、八十八ヶ所中最大とされる。「大興寺」と記された扁額には文永4年(1267)の年号と「従三位藤原朝臣経朝」の裏書きがある。

大興寺の見どころ

本堂の「七日燈明」・仁王門・参道の榧と楠

第67番札所 小松尾山 不動光院 大興寺
(こまつおざん ふどうこういん だいこうじ)

宗派
真言宗善通寺派
本尊
薬師如来(伝弘法大師作)
開基
弘法大師
創建
天平14年(742)
真言
おん ころころ せんだり まとうぎ そわか

アクセス情報

所在地
〒768-0101 香川県三豊市山本町辻4209
電話
0875-63-2341
駐車場
あり(無料)
宿坊
なし
公式HP
http://www.komatsuoji.com/

大野原インターチェンジから高松市内向きに国道11号線・県道240号線・国道377号線を経由して、観音寺市から山本町へ入ります。大興寺の看板を左折して直進、右手に見えてきます。
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巨鼇山 千手院 雲辺寺

【御詠歌】
はるばると雲のほとりの寺に来て
月日を今は麓にぞ見る

五百羅漢像

お釈迦様のお弟子さんである等身大の五百羅漢像が境内全域に安置され、参拝に訪れた方を見守っている。※画像1

国重要文化財

本尊・千手観音坐像、不動明王像、毘沙門天立像、絹本著色聖衆来迎図などがある。
※画像2は千手観音座像

雲辺寺の歴史・由来

四国霊場のうち最も高い標高911メートル、四国山脈の山頂近くにある霊場で、「遍路ころがし」と呼ばれる難所とされた。現在は、麓からロープウエーで山頂駅まで登ることができる。住所は徳島県だが、霊場としては讃岐の打ち始めでいわば「関所寺」。縁起によると、弘法大師は雲辺寺に3度登っている。最初は延暦8年、大師が16歳のときで善通寺(第七十五番)の建材を求めてであったが、深遠な霊山に心うたれて堂宇を建立した。これが雲辺寺の創建とされている。2度目は大同2年(807)、大師34歳のとき、唐から請来した宝物で秘密灌頂の修法をなされたという。さらに弘仁9年(818・大師45歳)、嵯峨天皇(在位809〜23)の勅を奉じて登り、本尊を彫造して、仏舎利と毘廬遮那法印(仏法石)を山中に納めて七仏供養をし、霊場と定められた。

霊場は、俗に「四国坊」と呼ばれ、四国の各国から馳せ参じる僧侶たちの学問・修行の道場となり、「四国高野」と称されて栄えた。貞観年間(859〜77)には清和天皇(在位858〜76)の勅願寺にもなっている。鎌倉時代は七堂伽藍も整備されて、境内には12坊と末寺8ヶ寺を有した古刹として阿波、伊予、讃岐の関所でもあったという。 天正年間(1573〜92)に土佐の豪族・長宗我部元親がこの地の白地城に陣して雲辺寺に参拝し、裏山から眼下を望み四国制覇を目指したが、当時の住職に諫められた。雲辺寺の歴史にも消長はあるが、江戸時代になってからは阿波藩主・蜂須賀公の手厚い保護をうけた。千古の杉に囲まれ、雲に包まれながら法灯を守っている。

雲辺寺の見どころ

巨鼇・国重要文化財・雲辺寺裏山問答(長宗我部元親と俊崇住職との問答。)・乳銀杏、おたのみなす(境内の片隅、奥まったところにある腰掛け。)・毘沙門天展望館(雲辺寺山の四季を360度眺望が楽しめる。)

第66番札所 巨鼇山 千手院 雲辺寺
(きょごうざん せんじゅいん うんぺんじ)

宗派
真言宗御室派
本尊
千手観世音菩薩(経尋作)
開基
弘法大師
創建
延暦8年(789)
真言
おん ばざらたらま きりく

アクセス情報

所在地
〒778-5251 徳島県三好市池田町白地ノロウチ763
電話
0883-74-0066
駐車場
あり
宿坊
なし
公式HP
なし

大野原インターチェンジから高松市内向きに国道11号線・県道8号線へ。ロープウェイの看板に沿って山道を走れば、雲辺寺ロープウェイ乗り場に到着します。
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由霊山 慈尊院 三角寺

【御詠歌】
おそろしや三つの角にもいるならば
心をまろく慈悲を念ぜよ

三角の池

周囲10数メートル、池のなかに三角形の島があり、弁財天が祀られた小さな堂が建っている。※画像1

薬師堂

疣や魚の目が治るご利益があるといわれる。疣は松かさのようにぽろりと落ち、魚の目には蛸の絵を描いた絵馬を奉納して祈る。蛸の吸盤が魚の目を取るという。※画像2

三角寺の歴史・由来

江戸時代の俳人・小林一茶が寛政7年(1795)に訪れたとき、「これでこそ 登りかひあり 山桜」と詠まれただけあって、山内は樹齢3、400年の桜が爛漫となる名所である。伊予最後の霊場で、標高は約360m、平石山の中腹にある静かな境内。
縁起では、聖武天皇(在位724〜49)の勅願によって、行基菩薩が弥勒の浄土を模して具現するために開創したと伝えられる。その後、弘仁6年(815)に弘法大師が訪れ、本尊の十一面観音像を彫造して安置された。さらに、大師は不動明王像も彫られ、三角の護摩壇を築いて21日間、国家の安泰と万民の福祉を祈念して「降伏護摩の秘法」を修法されたという。この護摩壇の跡が庫裡と薬師堂の間にある「三角の池」の中の島として現存し、寺院名の由来ともなっている。また、嵯峨天皇(在位809〜23)の厚い信仰をうけ、寺領300町歩をいただき、七堂伽藍を備えて寺運は隆盛だったと伝えられる。
だが、長宗我部軍の「天正の兵火」に遭い、一部の堂宇を焼失した。現在の本堂が再建されたのは嘉永2年(1849)で、昭和46年に修復されている。

本尊は古くから開運厄除けの観音・安産子安の観音さんとして、信仰を仰いでいる。ご祈祷をうけたお守りと腹帯が授けられ、また、「子宝杓子」といって、子宝に恵まれない夫婦が寺で杓子を授かり、仲良く食事をすると子宝に恵まれると伝えられる。子供を授かった後に、新しい杓子と授かった杓子をもってお礼参りをする。

三角寺の見どころ

三角の池・薬師堂・延命地蔵菩薩立像(昭和52年再建。高さ7m銅造。)

第65番札所 由霊山 慈尊院 三角寺
(ゆれいざん じそんいん さんかくじ)

宗派
高野山真言宗
本尊
十一面観世音菩薩(伝弘法大師作)
開基
行基菩薩
創建
天平年間(729〜749)
真言
おん まか きゃろにきゃ そわか

アクセス情報

所在地
〒799-0124 愛媛県四国中央市金田町三角寺甲75
電話
0896-56-3065
駐車場
あり
宿坊
なし
公式HP
なし

三島川之江インターチェンジから国道192号線に入ります。徳島方面に向かい、約200mで信号を右折、約4km山道を登ると到着します。
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石鈇山 金色院 前神寺

【御詠歌】
前は神後は仏極楽の
よろずの罪をくだくいしづち

修行大師

※画像1

御瀧行場不動尊

大師堂右奥の浄土橋を渡った右。かつては滝打ち修行が行われていた。画像2

前神寺の歴史・由来

山岳信仰の山として崇拝される日本七霊山の一つである石鎚山(標高1982m)の麓の霊場で、真言宗石鈇派の総本山であり、修験道の根本道場でもある。

開創は、天武天皇(在位673~86)時代に修験道の祖・役行者小角が石鎚山で修行を積んだ後、衆生の苦を救済するために釈迦如来と阿弥陀如来が石鈇山大権現となって現れたのを感得し、尊像を彫って安置し祀ったことに縁起する。その後、桓武天皇(在位781~806)が病気平癒を祈願し成就されたことにより七堂伽藍を建立し、勅願寺「金色院・前神寺」の称号を下賜された。以降、文徳天皇、高倉天皇、後鳥羽天皇、順徳天皇など多くの歴代天皇の信仰が厚かった。

後に空海(弘法大師)も2度石鎚山を巡鍚し虚空蔵求聞持法や護摩修行、断食修行などを行ったことが知られている。

江戸時代には、西条藩主松平家の祈願所となり三つ葉葵の寺紋を下賜するなど寺運は隆盛を極めたが、明治維新の神仏分離令により寺領を没収され、一時は廃寺を余儀なくされた。明治22年に前神寺として復興をはたし真言宗石鈇派総本山として法灯を伝えている。

毎年恒例の7月1日からの「お山開き」には白衣姿の信徒が結集し、法螺貝の音に「なんまいだ」を唱和している。

前神寺の見どころ

権現様縁日・御瀧行場不動尊(大師堂右奥、浄土橋の右、かつては滝打ち修行が行われていた。)・奥の院・奥前神寺(石鎚山中腹にあり、現在はロープウエーが通じておりお山開き期間中参詣できる。)

前神寺の年中行事

修正会
日時:1月1日から3日まで本堂にて(①9:00〜11:00 ②13:00〜15:00)
節分会(星まつり)
日時:2月3日(13:00〜 柴灯大護摩供・権現様ご開帳・福投げを行います)
灌仏会(花まつり)
日時:5月(7:00〜17:00 宿坊玄関前にて甘茶をご用意しています)
御砂踏み
日時:5月(9:00〜16:00 本堂にて)
夏山修行開白
日時:6月30日(7:00〜 柴灯大護摩供)
夏山修行結願
日時:7月11日(12:30〜 柴灯大護摩供・権現様ご開帳・福投げを行います)
修正会
日時:12月31日 23:45〜 除夜の鐘・(権現様のお札を授与しています)護摩供(不動堂)・権現様ご開帳(権現堂)

第64番札所 石鈇山 金色院 前神寺
(いしづちさん こんじきいん まえがみじ)

宗派
真言宗石鈇派
本尊
阿弥陀如来(伝役行者作)
開基
役行者小角
創建
七世紀後半
真言
おん あみりた ていせい からうん

アクセス情報

所在地
〒793-0053 愛媛県西条市洲之内甲1426
電話
0897-56-6995
駐車場
あり(無料)
宿坊
なし
公式HP
なし

いよ小松インターチェンジから国道11号線を西条市方面へ、石鎚山駅信号の先100mを右折、直進すると正面にあります。
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密教山 胎蔵院 吉祥寺

【御詠歌】
身の中の悪しきひほうを打ちすてて
みな吉祥をのぞみいのれよ

くぐり吉祥天女

お迎え大師の右横にあるのは本尊毘沙門天の妃であり脇侍である吉祥天女の像。当寺の名前の由来である。あらゆる貧困を取り除き大富貴をもたらす天部の仏様として篤い信仰を集めている。この像の下をくぐるとご利益があると伝えられており「くぐり天女」(きちじょうてんにょ)の名で多くの人に親しまれている。優雅な立ち姿が印象的。※画像1

成就石

手水鉢の右横にある高さ1mほどの石で、中央下に径30〜40cmの穴があり、金剛杖を通せば願いが叶えられるという。※画像2

吉祥寺の歴史・由来

四国霊場の中で、本尊を毘沙聞天とする札所は吉祥寺だけで、その縁起をたどる。
弘法大師がこの地方を巡教したのは弘仁年間とされ、その折に大師は1本の光を放つ檜を見つけ、一帯に霊気が満ちているのを感得した。大師は、この霊木で本尊とする毘沙聞天像を彫造、さらに脇侍として吉祥天像と善膩師童子像を彫って安置し、貧苦からの救済を祈願して堂宇を建立したのが開創と伝えられている。
そのころの寺は、現在地より南東にあたる坂元山にあり、広い寺域に塔頭を21坊ほども有していた。だが、天正13年(1585)豊臣秀吉による四国攻めの争乱に巻き込まれて全山を焼失されている。その後、江戸時代の万治2年(1659)、末寺であった檜木寺と合併して、現在の地に移り再建されたと伝えられる。

寺宝に「マリア観音像」(非公開)がある。高さが30cmほど、純白の美しい高麗焼の像だが、伝来の由縁が興味深い。土佐沖で難破したイスパニア船の船長が、長宗我部元親に贈ったもので、元親はマリア像とは知らず、吉祥天のように美しい観音像として代々伝えられ、徳川幕府のキリスト教禁令にも難を逃れている。寺にはほかに鎌倉時代の「十二天屏風」、室町時代の「山越阿弥陀三尊像」(紙本著色)などが保存されている。

吉祥寺の見どころ

  • 毘沙門天(四天王のうちの北方を司る「多聞天」で現世利益の仏様として信仰されている。)
  • 成就石(手水鉢の右横にある高さ1mほどの石で中央下に径30~40cmの穴があり、金剛杖を置けば願いが叶うという。)
  • くぐり吉祥天女(くぐると貧苦を取り除き富貴財宝を授かるという。)

吉祥寺の年中行事

毘沙聞天初会式(護摩供)
日時:1月3日
花まつり(甘茶接待)
日時:旧4月8日

第63番札所 密教山 胎蔵院 吉祥寺
(みっきょうざん たいぞういん きちじょうじ)

宗派
真言宗東寺派
本尊
毘沙聞天
開基
弘法大師
創建
弘仁年間(810〜824)
真言
おん べいしらまんだや そわか

アクセス情報

所在地
〒793-0072 愛媛県西条市氷見乙1048
電話
0897-57-8863
駐車場
なし ※近隣に有料駐車場あり
宿坊
なし
公式HP
なし
公式SNS
instagram

いよ小松インターチェンジから国道11号線を西条市方面へ、氷見小前交差点を過ぎてすぐの左手にあります。
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天養山 観音院 宝寿寺

【御詠歌】
さみだれの
あとに出たる玉の井は
白坪なる一宮かわ

弘法大師立像

木造彫眼彩色。像高36.0cm。木造素地の厨子(宮殿)に安置されており、右手に金剛杵を逆手にとり、左手は数珠をとって膝上におく通例の像容である。
足元の水瓶と沓は固定しないで台上に置かれており、厨子と大師像は江戸時代初期のものといわれている。
また、当寺のお大師さまは厄除けに霊験があるといわれており、年齢の数だけ「南無大師遍照金剛」と唱えると良いとされている。※画像1

十一面観音立像

宝寿寺が現在の場所に移転してきた当時に、地元の人々によって奉納されたものである。以来、本尊の十一面観音と同じく安産守護に御利益があると、信仰をあつめている。
大正12年3月 一切女人・国家安穏・諸願成就・安産守護のために と刻まれている。※画像2

宝寿寺の歴史・由来

往時は伊予三島水軍の菩提寺として、また、大山祇神社の別当寺として栄えていたのが宝寿寺の沿革である。
縁起によると、天平のころ聖武天皇(在位724~49)は諸国に一の宮を造営した。
その折、この地に大国主大神ら三神を祀る伊予の一の宮神社が建立され、大和の僧・道慈律師(?~744)が勅命をうけて法楽所としての別当寺を創建したのがはじめとされる。このとき天皇は『金光明最勝王経』を奉納され、寺名は「金剛宝寺」と称して、現在地ではなく中山川下流の白坪という地(現在地より約1km北に中山川があり、その北岸あたり)にあったと伝えられる。
弘法大師がこの地方を訪ねたのは大同年間(806~10)で、寺に久しく留まり聖武天皇の妃である光明皇后の姿をかたどった十一面観世音菩薩像を彫造した。これを本尊とし、寺名を「宝寿寺」と改めて霊場とされた。
また、この頃国司だった越智氏の夫人が難産で苦しんでいたので大師に祈念を頼み、大師が本尊に祈願した霊水・玉ノ井(現存しない)で加持したところ、夫人は玉のような男子を無事出産したことから安産の観音様としても信仰されたという。ただ、中山川のたび重なる洪水の被害を受け、天養2年(1145)に堂宇を再建し、山号も「天養山」と改めている。
以後、大山祇神社の別当寺として栄えたが、天正13年(1585)豊臣秀吉の四国征伐の戦禍で壊滅したが、寛永13年(1636年)宥伝上人によって当寺だけ新屋敷の現在地付近に移されて再興されたので、巡拝者は白坪の神社に札を納めた後、当寺で納経を行うこととなったが、その後の延宝7年(1679年)藩主の命により洪水を避けるために今度は神社が当寺の横に移転された。
さらに明治初頭の廃仏毀釈によって当寺は神社と分離され廃寺となったが、大石龍遍上人によって明治10年(1877年)に神社の南隣に移し再興され、大正10年(1921年)には予讃線鉄道工事にともない、さらに南側の現在地に移転した。

宝寿寺の見どころ

再興の祖:寛永13年(1636)四国遍路の行者、宥伝上人によって現在地に移転、再興された。
道標:山門を入った左手、蘇鉄の前にあった真念が建てたものは、愛媛県歴史文化博物館に移設保存されている。中務茂兵衛が254度目の遍路をした道標は山門脇にある。

第62番札所 天養山 観音院 宝寿寺
(てんようざん かんおんいん ほうじゅじ)

宗派
真言宗単立
本尊
十一面観世音菩薩
開基
聖武天皇
創建
天平年間(729〜49)
真言
おん まか きゃろにきゃ そわか

アクセス情報

所在地
〒799-1101 愛媛県西条市小松町新屋敷甲428
電話
0898-72-2210
駐車場
大型車(2台)
宿坊
なし
公式HP
なし

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栴檀山 教王院 香園寺

【御詠歌】
後の世を思えば詣れ香園寺
止とめて止まらぬ白滝の水

大聖堂

昭和51年に建立。褐色の鉄筋コンクリート造り。高さ16m、1階が大講堂、2階が本堂と大師堂。本堂には620余の椅子席がある。※画像1

子安大師像

大聖堂の右手前。背中にゴザ、右手に錫杖、左手に赤ん坊を抱いた大師の姿。※画像2

香園寺の歴史・由来

香園寺は聖徳太子(574〜622)の開基という四国霊場屈指の古刹であり、一方、境内には本堂と大師堂を兼ねた超近代的な大聖堂を構えている。また、寺が創始した子安講の輪は、海外にまで広がり現在20,000人を超えている。
縁起によると、用明天皇(在位585〜87)の病気平癒を祈願して、皇子である聖徳太子が建立したと伝えられる。このときに、太子の前に金の衣を着た白髪の老翁が飛来して、本尊の大日如来像を安置したとも伝えられ、また、天皇からは「教王院」の勅号を賜った。のち、天平年間(729〜49)には行基菩薩(668〜749)が訪ねている。
弘法大師が訪れたのは大同年間(806〜10)であった。ある日、門前で身重の婦人が苦しんでいた。大師は、栴檀の香を焚いて加持、祈祷をした。すると婦人は元気な男子を無事に出産した。これが機縁となり、大師は唐から持ち帰った小さな金の大日如来像を本尊の胸に納め、再び栴檀の香を焚いて安産、子育て、身代わり、女人成仏を祈る「四誓願」の護摩修法をされて寺に遺し、霊場に定められた。「栴檀山」はこれに由来する。

以来、安産、子育ての信仰を得て栄え、七堂伽藍と六坊を整えたが「天正の兵火」で焼失、寺運は明治・大正になって復興している。明治36年に晋山した山岡瑞園大和尚により、大正3年に本堂を再興し、同7年には「子安講」を創始して、全国の行脚はもとより、東南アジアやアメリカまで足を延ばし、講員の拡大と寺の隆盛に尽力している。

香園寺の見どころ

大聖堂・子安大師像・子安中学(現在の県立小松高校の前身で、昭和15年に寺が創設し、学校教育に尽力した。)

香園寺の年中行事

初祈祷会
日時:12月31日〜1月7日
聖徳会
日時:2月22日
花まつり
日時:4月8日
縁日
日時:4月20・21日
宗祖誕生会
日時:6月15日
地蔵盆会
日時:8月23日
施餓鬼会
日時:8月24日
修正会
日時:12月31日
弘法大師月御影供
日時:毎月21日
奥の院不動堂護摩供
日時:毎月28日

第61番札所 栴檀山 教王院 香園寺
(せんだんさん きょうおういん こうおんじ)

宗派
真言宗御室派
本尊
大日如来
開基
聖徳太子
創建
六世紀後半
真言
おん あびらうんけん ばざらだどばん

アクセス情報

所在地
〒799-1102 愛媛県西条市小松町南川甲19
電話
0898-72-3861
駐車場
あり(無料)
宿坊
なし
公式HP
http://www.koyasudaishi.or.jp/

いよ小松インターチェンジから国道11号線を西条市方面へ、香園寺交差点を右折、約370m走り右折後、正面にあります。
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石鈇山 福智院 横峰寺

【御詠歌】
たて横に峰や山辺に寺たてて
あまねく人を救ふものかな

本堂

神社風の権現造り。本尊は伝弘法大師作の大日如来坐像。平安時代の金銅蔵王権現御正体像も祀り、ともに県指定重要文化財。※画像1

星供大師

本堂左手前。右手に剣、左手に星供の巻物を持っている。※画像2

横峰寺の歴史・由来

西日本の最高峰・石鎚山(標高1982m)は、山岳信仰の霊地であり、修験道の道場でもある。弘法大師・空海が24歳の若いときの著書『三教指帰』の中で「或時は石峯に跨って粮を絶ち(断食)轗軻(苦行練行)たり」と、この山で修行した様子を記している。境内は石鎚山の山系の北側中腹(750m)にある。四国霊場のうちでは3番目の高地にあり、「遍路ころがし」の最難所であった。昭和59年に林道が完成して、現在は境内から500m離れた林道の駐車場まで車で行き参拝できる。ただし、冬期は12月下旬から2月いっぱい不通となる。大型バスは通行が不可である。
縁起によると、白雉2年、役行者が石鎚山の星ヶ森で修行をしていると、山頂付近に蔵王権現が現れたという。その姿を石楠花の木に彫り、小堂を建てて安置したのが創建とされている。また、延暦年間(782〜806)には石仙仙人という行者が住んでおり、桓武天皇(在位781〜806)の脳病平癒を成就したことから、仙人は菩薩の称号を賜ったと伝えられる。

弘法大師がこの寺で厄除けと開運祈願の星供養の修法をしたのは大同年間(806〜10)とされ、このときやはり蔵王権現が現れたのを感得、堂宇を整備して霊場とした。以来、神仏習合の別当寺として栄えているが、明治新政府の廃仏毀釈令により寺は廃寺となった。明治42年になって、檀信徒の協力によりようやく復興している。

横峰寺の見どころ

本堂・星供大師・石楠花(本堂から大師堂の横の山際一面に植えてある。5月上旬から鮮やかな薄紅色の花が、境内を彩る。)星ヶ森(名勝、山門から約600m、霊峰石鎚山の遥拝所)

横峰寺の年中行事

星まつり
日時:2月3日
花まつり
日時:旧暦4月8日

第60番札所 石鈇山 福智院 横峰寺
(いしづちさん ふくちいん よこみねじ)

宗派
真言宗御室派
本尊
大日如来(伝弘法大師作)
開基
役行者小角
創建
白雉2年(651)
真言
おん あびらうんけん ばざらだどばん

アクセス情報

所在地
〒799-1112 愛媛県西条市小松町石鎚甲2253
電話
0897-59-0142
駐車場
あり
宿坊
なし
公式HP
なし

いよ小松インターチェンジから国道11号線を西条市方面を目指して走ります。氷見交差点を過ぎて県道142号線に右折、バス停横峰登山口で右折。山へ向って進むと正面です。
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金光山 最勝院 国分寺

【御詠歌】
守護のため建ててあがむる国分寺
いよいよめぐむ薬師なりけり

握手修行大師

※画像1

薬師のつぼ

※画像2

国分寺の歴史・由来

伊予国分寺。伊予の国府があったところで、この地域は伊予文化発祥の地ともいえる。往時の国分寺はいまの寺から150mほど東にあった。東塔跡とみられる遺跡には13個の巨大な礎石があり、国の史蹟とされている。礎石の配置等から推測される七重塔の高さは60mほどで、豪壮な七堂伽藍を構えた寺観は、伊予の仏教界に君臨した天平の昔をしのばせ、その面影をいまに残している。
国分寺は天平13年、聖武天皇(在位724〜49)の勅願により行基菩薩が本尊の薬師如来像を彫造して安置し、開創したと伝えられる。第3世住職・智法律師のとき、弘法大師が長く滞在して「五大尊明王」の画像一幅を奉納、また大師の弟子・真如(?〜862年)も2年間留まり、『法華経』の一部を書写して納められている。

その後の伊予国分寺は、悲運な災禍の歴史に見舞われる。まず、天慶2年(939)の「藤原純友の乱」により灰燼に帰した。次に、元暦元年(1184)源平合戦の戦火による焼失。3度目は南北朝時代の貞治3年(1364)、讃岐・細川頼之の兵火によって焼かれ、さらに4度目は長宗我部元親の「天正の兵火」にかかり、堂塔を焼失している。相次ぐ罹災で寺は荒廃、元禄2年(1689)の寂本著『四國禮霊場記には「茅葺の小堂が寂しく建つのみ」旨が記されている。本格的な復興は江戸時代後期からであった。
幸い寺には、古瓦をはじめ『国分寺文書』『大般若経』など数多い文化財が保存されている。

国分寺の見どころ

本堂・本尊・書院・唐椿(四月初旬には径17cmほどの牡丹に似た花をつけ、楽しませてくれる。)

第59番札所 金光山 最勝院 国分寺
(こんこうざん さいしょういん こくぶんじ)

宗派
真言律宗
本尊
薬師瑠璃光如来
開基
行基菩薩
創建
天平13年(741)
真言
おん ころころ せんだり まとうぎ そわか

アクセス情報

所在地
〒799-1533 愛媛県今治市国分4-1-33
電話
0898-48-0533
駐車場
あり
宿坊
なし
公式HP
なし

今治インターチェンジから国道196号線を東予市を目指して走ります。高市交差点で左折後、直進。県道156号線を右折、約1km走ると左手にあります。
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