作礼山 千光院 仙遊寺

【御詠歌】
たちよりて作礼の堂にやすみつつ
六字を唱え経を読むべし

御砂踏霊場

修行大師を中心に四国八十八ヶ所のご本尊石仏をおまつりし、足元にある各札所のお砂を埋めた石板を安置しています。一心に念じてお参りいただければ、多大なご利益をあずかることができるでしょう。※画像1

宿坊

お遍路さんが疲れを癒し、旅が続けられるよう宿坊を設営しております。お大師様がお籠りになられたお山で静かな一晩をお過ごしください。(全室和室・要予約)※画像2

仙遊寺の歴史・由来

境内は、山号になっている作礼山の山頂近い標高300mの高台にあり、今治の市街地や四国一高い今治国際ホテルは眼下に望める。その先には瀬戸内海に浮かぶ島々、さらには平成11年に開通した「しまなみ海道」も一望できる眺望豊かな地にある。
創建は天智天皇(在位668〜71)の勅願により、伊予の国主・越智守興公が堂宇を建立、本尊の千手観音菩薩像は天皇の念持仏として、海から上がってきた竜女が一刀三礼しながら彫って安置したとされる。このことから「作礼山」が山号となり、竜宮から届けられたという伝説もある。

さらに仙遊寺には、阿坊仙人という僧が40年にわたって籠り、七堂伽藍を整えるなどをしたが、養老2年(718)に忽然と姿を消してしまったという伝説が残っている。寺名はその阿坊仙人に由来している。
弘法大師が四国霊場開創の折にこの寺で修法をされたとき、病に苦しむ人々を救済しようと井戸を掘り、また荒廃していた七堂伽藍を修復して再興、寺運は興隆した。この井戸は旧参道の脇に残り、「お加持の井戸」として多くの諸病を救ったと伝えられ、信仰されている。
江戸時代には荒廃して本堂と12社権現だけとなっていたが、明治時代の初期、高僧・宥蓮上人が山主となり、多くの信者とともに再興に尽力した。宥蓮上人は明治4年、日本最後の即身成仏として入定している。境内には、上人を供養した五輪塔がある。

仙遊寺の見どころ

竜燈桜碑・犬塚池

仙遊寺の年中行事

修正会、初祈祷会、新年祈祷会
日時:三が日
厄飛ばし柴燈大護摩供法会
日時:1月第二日曜日
大般若会
日時:1月17日
節分会
日時:2月3日
花祭り
日時:4月8日
弘法大師御影供
日時:4月29日
四万六千日大法会(夏祭り)
日時:8月9日の直近日曜日
大晦日、除夜の鐘
日時:12月31日
護摩会
日時:毎月21日

第58番札所 作礼山 千光院 仙遊寺
(されいざん せんこういん せんゆうじ)

宗派
高野山真言宗
本尊
千手観世音菩薩
開基
越智守興
創建
七世紀後半
真言
おん ばざらたらま きりく

アクセス情報

所在地
〒794-0113 愛媛県今治市玉川町別所甲483
電話
0898-55-2141
駐車場
あり ※道路維持費として普通車400円
宿坊
あり(50人・予約必要)
公式HP
http://www.shikoku88-58senyuji.com/
公式SNS
instagram

今治インターチェンジから国道196号線・317号線を玉川町方面へ向い、バス停大須木で左折、山道を進むと正面にあります。
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府頭山 無量寿院 栄福寺

【御詠歌】
この世には弓矢を守る八幡なり
来世は人を救う弥陀仏

古い納経帳

寛政12年(1800)江戸時代中期、九州から巡礼に来た人の名で、「八幡宮別当栄福寺」と記されている。約3ヵ月で四国霊場を一巡している。

少年の箱車

足の不自由な15歳の少年が、犬に引かせて巡礼した箱車で、昭和8年にこの寺で足が治り、松葉杖とともに奉納したもの。

栄福寺の歴史・由来

瀬戸内海沿岸のこの近海では、海難事故が絶えなかった。栄福寺は、弘法大師が海神供養を修したことから、海陸安全、福寿増長の祈願寺として往古から信仰されている。
縁起によると、嵯峨天皇(在位809〜23)の勅願により、大師がこの地を巡教したのは弘仁年間であった。内海の風波、海難の事故の平易を祈って、府頭山の山頂で護摩供を修法された。その満願の日、風波はおさまり、海上には阿弥陀如来の影向が漂った。この阿弥陀如来の尊像を府頭山頂で堂宇を建て、本尊として安置したのが創建といわれ、勅願寺とされた。

栄福寺には、神仏混合の歴史もあり、その由来も平安時代に遡る。貞観元年(859)、大和・大安寺の行教上人が宇佐八幡(大分)の霊告をうけて、その分社を山城(京都)の男山八幡(石清水八幡)として創建するため、近海を航行中に暴風雨に遭い、この地に漂着した。ところが府頭山の山容が山城の男山と似ており、しかも本尊の阿弥陀如来は八幡大菩薩の本地仏でもあることから、境内に八幡明神を勧請して社殿を造営、神仏合体の勝岡八幡宮を創建したと伝えられる。この八幡宮は「伊予の石清水八幡宮」とも呼ばれ、「四国五十七番」と仲良く寺社名を刻んだ石塔の道標が立っている。
明治新政府の神仏分離令により、寺は旧地から山の中腹になる現在地に移転し、また神社と寺はそれぞれ独立した。現在の大師堂は、山頂にあった堂舎を移築した由緒がある。また、栄福寺が所蔵している江戸中期の手書きの納経帳にも「別当 栄福寺」の墨書きがあり、また同じく江戸時代の版木で押された納経帳でも「別当 栄福寺」の名がみられ、納経を明治維新からではなく、古来より行っていたことがわかる。

栄福寺の見どころ

古い納経帳・少年の箱車・お願い地蔵(参道入口。赤い帽子をかぶっている。)・大師堂の十二支彫刻

第57番札所 府頭山 無量寿院 栄福寺
(ふとうざん むりょうじゅいん えいふくじ)

宗派
高野山真言宗
本尊
阿弥陀如来
開基
弘法大師
創建
弘仁年間(810〜824)
真言
おん あみりた ていせいから うん

アクセス情報

所在地
〒794-0114 愛媛県今治市玉川町八幡甲200
電話
0898-55-2432
駐車場
あり
宿坊
なし
公式HP
http://www.eifukuji.jp/
公式SNS
twitter

今治インターチェンジから国道196号線・317号線を玉川町方面へ向い、県道155号線を左折。蒼社川を越えて右折後、約1km先を左折、直進すると左手にみえます。
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金輪山 勅王院 泰山寺

【御詠歌】
みな人の詣りてやがて泰山寺
来世の引導たのみおきつつ

本堂

※画像1

不忘の松

大師堂の側にある。※画像2

泰山寺の歴史・由来

泰山寺には、水難で人命を失う悪霊のたたりを鎮めた伝説が根強く残っている。
弘法大師がこの地を訪れたのは弘仁6年のころ。蒼社川という川がこの地方を流れており、毎年梅雨の季節になると氾濫して、田地や家屋を流し、人命を奪っていたため、村人たちは恐れ苦しみ、人取川といって悪霊のしわざと信じていた。この事情を聴いた大師は、村人たちと堤防を築いて、「土砂加持」の秘法を七座にわたり修法したところ、満願の日に延命地蔵菩薩を空中に感得し、治水祈願が成就したことを告げた。

大師は、この修法の地に「不忘の松」を植えて、感得した地蔵菩薩の尊像を彫造して本尊とし、堂舎を建てて「泰山寺」と名づけた。この寺名は、『延命地蔵経』の十大願の第一「女人泰産」からとったと伝えられる。「泰山」にはまた、寺があった裏山の金輪山を死霊が集まる泰山になぞらえ、亡者の安息を祈り、死霊を救済する意味もあるという。
寺はその後、淳和天皇(在位823〜33)の勅願所となり、七堂伽藍を備えて、塔頭に地蔵坊、不動坊など10坊を構えるほどの巨刹として栄えた。だが度重なる兵火により寺の規模は縮小し、金輪山の山頂にあった境内が麓の現在地、大師お手植えの「不忘の松」があったところに移ったと伝えられている。
泰山寺の右約300m「塔の元」という場所は、鎌倉時代の学僧で、『八宗綱要』を撰述した凝然(1240〜1321)が誕生した地とされている。

泰山寺の見どころ

土砂加持・不忘の松・地蔵車(本堂斜め前。石塔に丸い輪があり、これを回すと六道輪廻の絆を断てるといわれる。六道は、地獄・餓鬼など衆生が背負う六つの迷界。)

第56番札所 金輪山 勅王院 泰山寺
(きんりんざん ちょくおういん たいさんじ)

宗派
真言宗単立
本尊
地蔵菩薩(伝弘法大師作)
開基
弘法大師
創建
弘仁6年(815)
真言
おん かかかび さんまえい そわか

アクセス情報

所在地
〒794-0064 愛媛県今治市小泉1-9-18
電話
0898−22-5959
駐車場
あり
宿坊
なし
公式HP
なし

今治インターチェンジから国道196号線を東予市方面へ直進。約500m先の交差点で右折後、直進すると右手に見えてきます。
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別宮山 金剛院 南光坊

【御詠歌】
このところ三島に夢のさめぬれば
別宮とても同じ垂迹

大通智勝如来

『法華経』の化城喩品第七に説かれている仏で、大山祇大明神の本地とされて河野水軍に信仰された。※画像1

川村驥山の菅笠

書道界初めて芸術院賞を受けた書家で、昭和29年娘を伴い遍路の途中に南光坊の住職と出会い、奉納した菅笠。あまりの達筆に驚いた住職の望みに応えた。※画像2

南光坊の歴史・由来

四国霊場のうち「坊」がつく寺院はこの南光坊だけである。正式には光明寺金剛院南光坊という。今治市の中心街にあるが起源は古く、航海の神、総鎮守・伊予一の宮の大山祇神社と深くかかわる歴史を有する。
推古天皇御代二年甲寅(594)に勅により大三島に造立されて。其の後、越智玉澄公が文武天皇の勅を奉じて、大宝三年(703)風波のため祭祀がおろそかになるのを憂いて当地に勧請し、「日本総鎮守三島の地御前」と称して奉祭した。弘法大師は四国巡錫の時別館参拝し、坊で御法楽をあげられて四国霊場第五十五番札所と定めた

のち、伊予全土におよんだ「天正の兵火」により、社殿・伽藍はことごとく焼失したが、南光坊だけが別宮の別当寺として再興された。慶長5年(1600)には藤堂高虎公の祈願所として薬師堂を再建、また江戸時代には藩主・久松公も祈祷所にして信仰し、祭祀料を奉納している。
さらに時代がさがり、明治初年の廃仏毀釈では本地仏として社殿に奉安していた大通智勝如来と脇侍の弥勒菩薩像、観音菩薩像を南光坊薬師堂に遷座し、別宮大山祇神社と明確に分離した。
太平洋戦争最末期の昭和20年8月、空襲により大師堂と金比羅堂を残して罹災した。現在の本堂は昭和56年秋、薬師堂は平成3年春に、山門は同10年に再建されている。

南光坊の見どころ

大通智勝如来・川村驥山の菅笠・金比羅堂(讃岐の金比羅宮から勧請している金比羅大権現を祀る堂。)

南光坊の年中行事

修正会
日時:1月1日〜3日
御本尊お口開け
日時:1月9日
旧正御影供
日時:旧暦3月21日
金毘羅大権現大般若転読
日時:旧暦6月10日
霜月大師御影供
日時:12月21日

第55番札所 別宮山 金剛院 南光坊
(べっくざん こんごういん なんこうぼう)

宗派
真言宗御室派
本尊
大通智勝如来
開基
行基菩薩
創建
大宝3年(703)
真言
なむ だいつうちしょう ぶつ

アクセス情報

所在地
〒794-0026 愛媛県今治市別宮町3丁目1番地
電話
0898-22-2916
駐車場
あり(無料)
宿坊
なし
公式HP
なし

今治インターチェンジから国道196号線片山交差点を左折、今治市街方面へ直進。今治大丸の前を左折、約500mの左手にあります。
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近見山 宝鐘院 延命寺

【御詠歌】
くもりなき鏡の縁とながむれば
残さず影をうつすものかな

山門

もと今治城の城門の一つで、総けやき造り。明治初期に今治城取り壊しの際に譲り受けた。※画像1

火伏せ不動尊

本尊。宝冠をかぶった珍しい不動明王像で、再三の火災から逃れているのでこの尊名が。※画像2

延命寺の歴史・由来

今治の市街地から西北へ6kmほどのところに、延命寺の山号にもなっている近見山という標高244mの山がある。この山頂一帯に七堂伽藍の甍を連ねて、谷々には100坊を数えていたのが延命寺であったと伝えられる。
縁起によると、養老四年に聖武天皇(在位724〜49)の勅願により、行基菩薩が大日如来の化身とされる不動明王像を彫造して本尊とし、伽藍を建立して開創した。弘仁年間(810〜24)になって、弘法大師が嵯峨天皇(在位809〜23)の勅命をうけ、伽藍を信仰と学問の中心道場として再興、「不動院・圓明寺」と名づけ、勅願所とした。この「圓明寺」の寺名は、明治維新まで続いたが、同じ寺名の五十三番・圓明寺(松山市)との間違いが多く、江戸時代から俗称としてきた「延命寺」に改めている。

その後、再三火災に遭い堂宇を焼失しているが、再興をくり返し、享保12年(1727)に難を免れた本尊とともに現在地の近見山麓へ移転した。この間、鎌倉時代の文永5年(1268)、華厳宗の学僧・凝然(1240〜1321)が寺の西谷の坊に籠り、初学者の仏教入門書といわれる『八宗綱要』を著述した。「八宗」とは倶舎・成実・律・法相・三論・天台・華厳の各宗と新しく興った浄土宗で、上下2巻に記されている。
寺にはまた、四国で2番目に古い真念の道標が残されており、境内に馬酔木の木があって、春の彼岸ごろから1ヵ月ほど可憐な白い花をつけている。

延命寺の見どころ

山門・火伏せ不動尊・越智孫兵衛の墓(阿方の庄屋であった越智孫兵衛は、農民の窮乏を救い、享保年間の大飢饉でも餓死者を出さなかったと伝えられる。)

延命寺の年中行事

初不動
日時:1月28日
節分祭
日時:2月3日
お花まつり
日時:4月8日
越智孫兵衛・慰霊祭
日時:8月7日
施餓鬼法要
日時:8月23日
納め不動
日時:12月28日
除夜の鐘
日時:12月31日

第54番札所 近見山 宝鐘院 延命寺
(ちかみざん ほうしょういん えんめいじ)

宗派
真言宗豊山派
本尊
不動明王(伝行基菩薩作)
開基
行基菩薩
創建
養老4年(720)
真言
のうまく さんまんだ ばざらだん せんだ まかろしゃだ そわたや うん たらた かんまん

アクセス情報

所在地
〒794-0081 愛媛県今治市阿方甲636
電話
0898-22-5696
駐車場
あり ※冥加料あり
宿坊
なし
公式HP
https://enmeiji.info/

円明寺を出たあと、海沿いを走る国道196号線を北東へ。JR大西駅を過ぎ、しばらく進むと県道38号線へ続く細い道へ分岐します。38号線に入り、1.4km走ると道路沿いに延命寺入り口の看板があります。そこを左折し、300mほど進むと延命寺に到着します。
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須賀山 正智院 円明寺

【御詠歌】
来迎の弥陀の光の圓明寺
照りそふ影は夜な夜なの月

キリシタン石塔

大師堂左の塀ぎわにあり、高さ40cmほどの灯籠。キリシタン禁制の時代、この地方には信者が多くいて、寺では隠れ信者の礼拝を黙認していたようである。

左甚五郎作の龍

本堂の右上・鴨居にあり、5mほどの彫り物。行い悪い人が見ると目が光るという。

圓明寺の歴史・由来

圓明寺には、アメリカ人巡礼者が発見した四国霊場最古の銅板納札が保存されている。
大正13年3月、シカゴ大学のスタール博士が四国遍路をしている途次、寺の本尊・阿弥陀如来像を安置している厨子に打ち付けてあったのを見つけた。江戸時代の初期にあたる慶安3年(1650)の銘があり、縦24cm、幅が9.7cm、厚さ約1mmで破損のない納札としては、現存最古で例のない銅板製である。
奉納者の樋口平人家次は、京都・五智山蓮華寺の伽藍を再興して、五智如来石仏を造立したことなどで知られるが、この納札でとくに注目されるのは、初めて「遍路」の文字が記されていることでもある。

縁起によると天平勝宝元年、聖武天皇(在位724〜49)の勅願により、行基菩薩が本尊の阿弥陀如来像と脇侍の観世音菩薩像、勢至菩薩像を彫造して安置し、七堂伽藍を備えた大寺として建立したのが創建とされている。当時は、和気浜の西山という海岸にあり「海岸山・圓明密寺」と称したという。
のち、弘法大師が荒廃した諸堂を整備し、霊場の札所として再興したが、鎌倉時代に度重なる兵火で衰微、元和年間(1615〜24)に土地の豪族・須賀重久によって現在地に移された。さらに、寛永13年(1636)京都・御室の覚深法親王からの令旨により仁和寺の直末として再建され、寺号もそのとき現在のように改められている。 圓明寺はまた、聖母マリア像を浮き彫りにしたキリシタン灯籠があることでも知られる。

圓明寺の見どころ

キリシタン石塔・左甚五郎作の龍・観音堂(十一面観音像を安置。慶長5年の台座銘。)

第53番札所 須賀山 正智院 円明寺
(すがざん しょうちいん えんみょうじ)

宗派
真言宗智山派
本尊
阿弥陀如来(伝行基菩薩作)
開基
行基菩薩
創建
天平勝宝元年(749)
真言
おん あみりた ていせい からうん

アクセス情報

所在地
〒799-2656 愛媛県松山市和気町1-182
電話
089-978-1129
駐車場
あり(無料)
宿坊
なし
公式HP
なし

松山インターチェンジから国道33号線を松山市街へ。南環状線・国道196号線と走り、内宮交差点で左折。そのまま直進し、右手に見える。
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瀧雲山 護持院 太山寺

【御詠歌】
太山へのぼれば汗のいでけれど
後の世思へば何の苦もなし

本堂

嘉元3年(1305)、松山城主・河野家が寄進。桁行7間、梁間9間の入母屋造り本瓦葺き。国宝。※画像1

仁王門

本堂と同じく鎌倉時代の再建で、
3間8脚門、入母屋造り本瓦葺き。国重要文化財。※画像2

太山寺の歴史・由来

開基とされる真野長者、その長者が一夜にして御堂を建てたという縁起は興味深い。
長者は豊後(大分)でふいごの炭焼きをしていたが、神のお告げで久我大臣の娘・王津姫と結婚、いらい運が開けて大富豪となった。用明2年(587)、商いのため船で大阪に向かうとき大暴風雨に遭い、観音さまに無事を祈願したところ、高浜の岸で救われた。この報恩にと一宇の建立を大願し、豊後の工匠を集めて間口66尺、奥行き81尺の本堂を建てる木組みを整えて船積みした。順風をうけて高浜に到着、夜を徹して組み上げ、燦然と朝日が輝くころに本堂は建ち上がった。いらい「一夜建立の御堂」と伝えられている。

その後、天平11年(739)に聖武天皇(在位724〜49)の勅願をうけて、行基菩薩が十一面観音像を彫造し、その胎内に真野長者が瀧雲山で見つけた小さな観音像を納めて本尊にしたという。寺が隆盛したのは孝謙天皇(在位749〜58)のころで、七堂伽藍と66坊を数えるほど壮観であった。弘法大師は晩年の天長年間(824〜34)に訪れ、護摩供の修法をされて、それまでの法相宗から真言宗に改宗している。
のち、後冷泉天皇(在位1045〜68)をはじめに、後三条、堀河、鳥羽、崇徳、近衛の6代にわたる各天皇が、十一面観音像を奉納されている。いずれも像高は150cm前後で、本尊の十一面観音像とともに国の重要文化財。本堂内陣の厨子に安置されている。なお現本堂は長者の建立から3度目だが、真言密教では最大規模を誇り国宝である。

太山寺の見どころ

本堂・仁王門・聖徳太子堂(伊予を訪れた太子が、この寺と縁を結んだ。法隆寺夢殿と同じ太子像を祀る。)・最古の木製納札(安永9年(1780)銘。)

第52番札所 龍雲山 護持院 太山寺
(りゅううんざん ごじいん たいさんじ)

宗派
真言宗智山派
本尊
十一面観世音菩薩
開基
真野長者
創建
六世紀後半
真言
おん まか きゃろにきゃ そわか

アクセス情報

所在地
〒799-2662 愛媛県松山市太山寺町1730
電話
089-978-0329
駐車場
あり(無料)
宿坊
なし
公式HP
なし

松山インターチェンジから国道33号線を松山市街へ。南環状線・国道196号線と走り、内宮交差点で左折。そのまま直進すると見えてきます。
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熊野山 虚空蔵院 石手寺

【御詠歌】
西方をよそとは見まじ安養の
寺に詣りて受くる十楽

七転八起 元気石

※画像1

みんな一緒大仏

※画像2

石手寺の歴史・由来

日本最古といわれる道後温泉の近く。参道が回廊形式となり仲見世のみやげ店が並ぶ。境内は、巡礼者よりも地元のお大師さん信者や観光客が多い霊場である。
そのもう一つの要因は、境内ほとんどの堂塔が国宝、国の重要文化財に指定されている壮観さで、それに寺宝を常時展示している宝物館を備えており、四国霊場では随一ともいえる文化財の寺院である。まず、一部を簡略にふれておこう。国宝は二王門で、高さ7m、間口は三間、横4m、文保2年(1318)の建立、二層入母屋造り本瓦葺き。重要文化財には本堂をはじめとして、三重塔、鐘楼、五輪塔、訶梨帝母天堂、護摩堂の建造物と、「建長3年」(1251)の銘が刻まれた愛媛県最古の銅鐘がある。

縁起によると、神亀5年(728)に伊予の豪族、越智玉純が霊夢に二十五菩薩の降臨を見て、この地が霊地であると感得、熊野12社権現を祀ったのを機に鎮護国家の道場を建立し、聖武天皇(在位724〜49)の勅願所となった。翌年の天平元年に行基菩薩が薬師如来像を彫造して本尊に祀って開基し、法相宗の「安養寺」と称した。
「石手寺」と改称したのは、寛平四年(892)の右衛門三郎再来の説話によるとされる。
鎌倉時代の風格をそなえ、立体的な曼荼羅形式の伽藍配置を現代に伝える名刹である。境内から出土された瓦により、石手寺の前身は680年(白鳳時代)ごろ奈良・法隆寺系列の荘園を基盤として建てられた考証もある。

石手寺の見どころ

訶梨帝母天堂・落書き堂・洗い石(門前にある別名「渡らずの橋」。裏側に経文が刻まれている。)・阿弥陀堂(二王門を入り左側。ぼけ防止の祈願者が多く参拝する。)

第51番札所 熊野山 虚空蔵院 石手寺
(くまのざん こくぞういん いしてじ)

宗派
真言宗豊山派
本尊
薬師如来
開基
行基菩薩
創建
天平元年(729)
真言
おん ころころ せんだり まとうぎ そわか

アクセス情報

所在地
〒790-0852 愛媛県松山市石手二丁目9番21号
電話
089-977-0870
駐車場
あり
宿坊
なし
公式HP
http://nehan.net/

松山インターチェンジから国道33号線を松山市街へ。天山交差点を右折し、環状線に入ります。更に国道317号線に入る。最初の交差点を左折すると、正面にあります。
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東山 瑠璃光院 繁多寺

【御詠歌】
よろずこそ繁多なりとも怠らず
諸病なかれと望み祈れよ

歓喜天像

本堂左手の聖天堂に安置。祈れば富貴を与え、厄除け、夫婦和合、商売繁盛などのご利益があるという。※画像1

二十四孝天井絵

本堂左手の聖天堂に安置。祈れば富貴を与え、厄除け、夫婦和合、商売繁盛などのご利益があるという。※画像2

繁多寺の歴史・由来

寺は松山城をはじめ、松山の市街、瀬戸内海まで一望できる高台にあり、のどかな風情の境内周辺は、美しい自然の宝庫として景観樹林保護地区に指定されている。
縁起によると、天平勝宝年間に孝謙天皇(在位749〜58)の勅願により、行基菩薩が薬師如来像を彫造して安置し、建立したと伝えられ、天皇より祭具としての幡を賜った為にこれが寺名になったという説もある。弘仁年間(810~24)、弘法大師がこの地を巡錫し、寺に逗留された。
その後、寺は衰微するが伊予の国司・源頼義や僧・堯蓮らの援助で再興、弘安2年(1279)には後宇多天皇(在位1274〜87)の勅命をうけ、この寺で聞月上人が蒙古軍の撃退を祈祷している。また、時宗の開祖・一遍上人(1239〜89)が青年期に、太宰府から伊予に帰郷した際、有縁の寺に参籠して修行した。上人は晩年の正応元年(1288)、亡父・如仏が所蔵していた『浄土三部経』をこの寺に奉納されている。

また、天皇家の菩提寺である京都・泉涌寺とのゆかりも深く、応永2年(1395)には後小松天皇(在位1382〜1412)の勅命により泉涌寺26世・快翁和尚が、繁多寺の第7世住職となっている。こうした縁から寺には16弁のご紋章がついた瓦が残っている。
さらに江戸時代には徳川家の帰依をうけ、四代将軍・家綱が念持仏としていた3体のうちの歓喜天を祀るなど、寺運は36坊と末寺100数余を有するほどの大寺として栄えた。

繁多寺の見どころ

一遍上人・歓喜天像・接待一万人の石柱(山門前にある寺名の石柱裏側。10,000人のお遍路接待を成就した記念碑。)

繁多寺の年中行事

花まつり(甘茶接待)
日時:4月8日
地蔵盆(子供相撲大会)
日時:8月24日
歓喜天縁日
日時:毎月16日
歓喜天大般若祈祷会
日時:1月16日、8月16日

第50番札所 東山 瑠璃光院 繁多寺
(ひがしやま るりこういん はんたじ)

宗派
真言宗豊山派
本尊
薬師如来
開基
行基菩薩
創建
天平勝宝年間(749〜757)
真言
おん ころころ せんだり まとうぎ そわか

アクセス情報

所在地
〒790-0912 愛媛県松山市畑寺町32
電話
089-975-0910
駐車場
あり(無料)
宿坊
なし
公式HP
なし

松山インターチェンジから国道33号線を松山市街へ。天山交差点を右折し、環状線に入ります。枝松交差点を越えた一つ目の交差点を右折し、約1km走ります。バス停畑寺を越えてさらに600m入ると正面にあります。
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西林山 三蔵院 浄土寺

【御詠歌】
十悪のわが身を棄てずそのままに
浄土の寺へまいりこそすれ

空也上人像

国指定重要文化財。像高121.5cm、木造、玉眼。口元から六体の阿弥陀小化仏を吐いている。※画像1

落書き

本堂厨子に室町時代から江戸時代にかけての落書きがあり、貴重な歴史史料。※画像2

浄土寺の歴史・由来

境内入口に正岡子規の句碑「霜月の空也は骨に生きにける」が立つ。浄土寺は空也上人(903〜72)の姿がいまに残る寺である。腰のまがったやせた身に、鹿の皮をまとい、ツエをつき鉦をたたきながら行脚し、「南無阿弥陀仏」を唱えるひと言ひと言が小さな仏となって口からでる姿が浮かぶ。道路を補修し、橋を架け、井戸を掘っては民衆を救い、また広野に棄てられた死体を火葬にし、阿弥陀仏を唱えて供養した遊行僧、念仏聖である。
この空也上人像を本堂の厨子に安置する浄土寺は、縁起によると天平勝宝年間に女帝・孝謙天皇(在位749〜58)の勅願寺として、恵明上人により行基菩薩(668〜749)が彫造した釈迦如来像を本尊として祀り、開創された。法相宗の寺院だったという。のち弘法大師がこの寺を訪ねて、荒廃していた伽藍を再興し、真言宗に改宗した。そのころから寺運は栄え、寺域は八丁四方におよび、66坊の末寺をもつほどであった。

空也上人が四国を巡歴し、浄土寺に滞留したのは平安時代中期で、天徳年間(957〜61)の3年間、村人たちへの教化に努め、布教をして親しまれた。鎌倉時代の建久3年(1192)、源頼朝が一門の繁栄を祈願して堂塔を修復した。だが、応永23年(1416)の兵火で焼失、文明年間(1469〜87)に領主、河野道宣公によって再建された。
本堂と内陣の厨子は当時の建造で、昭和36年に解体修理をされているが、和様と唐様が折衷した簡素で荘重な建物は、国の重要文化財に指定されている。

浄土寺の見どころ

空也上人像・落書き・三蔵院(浄土宗の開祖・法然上人、1世・聖光上人、2世・良忠上人の自作像が安置されていた。この三像は昭和20年の松山空襲で出開帳先の寺で全焼している。)

第49番札所 西林山 三蔵院 浄土寺
(さいりんざん さんぞういん じょうどじ)

宗派
真言宗豊山派
本尊
釈迦如来(伝行基菩薩作)
開基
恵明上人
創建
天平勝宝年間(749〜757)
真言
のうまく さんまんだ ぼだなん ばく

アクセス情報

所在地
〒790-0925 愛媛県松山市鷹子町1198
電話
089-975-1730
駐車場
あり ※普通20台・バス4台 有料
宿坊
なし
公式HP
なし

松山インターチェンジから国道33号線を松山市街へ。天山交差点を右折し、環状線に入ります。枝松交差点を右折し県道40号線を川内方面へ。約3km走り、左折すると正面に見えます。
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