母養山 宝樹院 恩山寺

【御詠歌】
子を生めるその父母の恩山寺
訪らひがたきことはあらじな

玉依御前の剃髪所

大師堂の手前。「大師御母公剃髪所」の石碑と小さなお堂が建ち、
また、大師作と伝えられる「御母公像」、母君の髪の毛が安置されている。※画像1

弘法大師像

大師自ら彫造した像で、現在、大師堂の本尊とされている。※画像2

恩山寺の歴史・由来

小松島市郊外の小高い山の樹林が心地よい、県指定の風致地区にある。縁起をたどると、創建は聖武天皇(在位724〜49)の勅願により、行基菩薩が草創して、当時は「大日山福生院密厳寺」と号した。本尊には行基菩薩が薬師如来像を彫造して安置し、災厄悪疫を救う女人禁制の道場であった。十九番霊場に向かって下る「花折り坂」という坂から上には、女性が入ることは許されていなかったのである。延暦年間(782〜806)になって、弘法大師がこの寺で修行をしていたころという。大師の生母・玉依御前が讃岐の善通寺から訪ねてきた。だが、寺は女人禁制、大師は山門近くの瀧にうたれて7日間の秘法を修し、女人解禁の祈願を成就して母君を迎えることができた。

やがて母君は剃髪をして、その髪を奉納されたので、大師は山号寺名を「母養山恩山寺」と改め、自像を彫造して安置され「我が願いは末世薄福の衆生の難厄を除かん」と誓われた。弘仁5年(814)ころのことと伝えられる。
寺は「天正の兵火」で焼失しているが、江戸時代になって阿波藩主の庇護をうけて繁栄し、現在の本堂や大師堂は文化、文政年間(1804〜30)ころに建立された由緒ある建造物である。境内には玉依御前を祀る小堂があり、母君に孝養をつくして、大師が植樹した「びらんじゅ」は、県の天然記念物にもなっている。母君を慕いつくした大師のこころが、いまも宿っているような寺である。

恩山寺の見どころ

玉依御前の剃髪所・弘法大師像・「源義経上陸の地」石碑(境内の山裾にあり、近くの神社に義経が弓を引くいている銅像)

恩山寺の年中行事

護摩祈祷
日時:毎月1日、12日、20日
奥之院金磯弁財天縁日
日時:己巳の日(つちのとみのひ、この日に参拝すれば財福が備わるとされます)

第18番札所 母養山 宝樹院 恩山寺
(ぼようざん ほうじゅいん おんざんじ)

宗派
高野山真言宗
本尊
薬師如来
開基
行基菩薩
創建
天平年間(729〜749)
真言
おん ころころ せんだり まとうぎ そわか

アクセス情報

所在地
〒773-0008 徳島県小松島市田野町字恩山寺谷40
電話
0885-33-1218
駐車場
普通20台・マイクロバス5台・大型4台 (午前7時〜午後5時 ・無料)
宿坊
なし
公式HP
なし

JR南小松島から西へ進み日開野町交差点で左折して国道55号線を南へ。標識に従って右折し、道案内に従って進みます。
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瑠璃山 真福院 井戸寺

【御詠歌】
面影をうつしてみれば井戸の水
結べば胸のあかやおちなん

面影の井戸

大師が掘った伝説の井戸で、覗き込んで自分の姿がうつれば無病息災、うつらなかったら3年以内の厄災に注意する。※画像1

日限大師

石造の大師像で「水大師」ともいわれる。5日、7日などと日数を限って日参すればご利益ありといわれる。※画像2

井戸寺の歴史・由来

7世紀後半の白鳳時代は、清新な日本文化が創造された時期で、律令制もようやく芽生えて、阿波の国にも国司がおかれた。この国司に隣接して、天武天皇(在位673〜86)が勅願道場として建立したのが井戸寺であり、当時の寺名は「妙照寺」であったという。寺域は広く八町四方、ここに七堂伽藍のほか末寺十二坊を誇る壮大な寺院があり、隆盛を極めたと伝えられている。本尊は、薬師瑠璃光如来を主尊とする七仏の薬師如来坐像で、聖徳太子の作と伝えられ、また、脇仏の日光・月光菩薩像は行基菩薩の彫造と伝えられる。のち弘仁6年(815)に弘法大師がこれらの尊像を拝むために訪れたとき、檜に像高約1.9メートルの十一面観音像を彫って安置されている。この像は、右手に錫杖、左手に蓮華を挿した水瓶をもった姿形で、現在、国の重要文化財に指定されている。大師はまた、この村が水不足や濁り水に悩んでいるのを哀れみ、自らの錫杖で井戸を掘ったところ、一夜にして清水が湧き出した。そこで付近を「井戸村」と名付け、寺名も「井戸寺」に改めたという。

ただ、南北朝時代以降の寺史は激変する。まず貞治元年(1362)、細川頼之の兵乱で堂宇を焼失し、次いで天正10年(1582)には三好存保と長宗我部元親との戦いでも罹災している。江戸時代に本堂が再建されたのは万治4年(1661)であった。 七仏薬師如来は全国でも珍しく、七難即滅、七福即生などの開運に信仰が多い。

井戸寺の見どころ

面影の井戸・日限大師・仁王門(阿波10代藩主・蜂須賀重喜公が大谷別邸から移築し寄進した門。)

井戸寺の年中行事

正御影供
日時:旧暦3月21日
不動護摩
日時:毎月28日

第17番札所 瑠璃山 真福院 井戸寺
(るりざん しんぷくいん いどじ)

宗派
真言宗善通寺派
本尊
七仏薬師如来
開基
天武天皇
創建
白鳳2年(673)
真言
おん ころころ せんだり まとうぎ そわか

アクセス情報

所在地
〒779-3118 徳島県徳島市国府町井戸北屋敷80-1
電話
088-642-1324
駐車場
普通30台・マイクロバス5台・大型5台(午前7時〜午後5時)
宿坊
なし
公式HP
なし

藍住インターチェンジから県道1号線を蔵本町方面へ行き、NTT徳島西営業所ちかくの交差点を右折。約2km先で標識に従って左折。あとは道案内が出ています。
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光耀山 千手院 観音寺

【御詠歌】
忘れずも導きたまえ観音寺
西方世界弥陀の浄土へ

夜泣き地蔵

子供の夜泣きを止めてくれる地蔵尊で、子供の病気平癒、健康と成長を祈願する。ご利益をあずかったお礼にと、何枚ものよだれかけが奉納される。※画像1

絵馬

炎に包まれた女性が描かれた奉納額で、本堂内に掲げられている。明治時代にあった遍路の実話という。※画像2

観音寺の歴史・由来

寺に伝わる宝物に『観音寺縁起』一巻がある。巻末に「享保十乙秋穀旦 南山沙門某甲謹書」の署名があり、享保10年(1725)に高野山の僧が筆写したことがわかる。その冒頭で「南海道阿波国名東郡観音寺邑 光耀山千手院観音寺縁起」と書き出し、観音寺が弘法大師によって創建され、大師自ら千手観音像を彫造して本尊にしたこと、また脇侍像に悪魔を降伏する不動明王像、鎮護国家の毘沙門天像を刻んだことや、徳島藩主の蜂須賀綱矩公が新築・移転に協力したことなどの寺史が詳しく記されている。この『縁起』とは別に、寺伝では聖武天皇(在位724〜49)が天平13年、全国68ヶ所に国分寺・国分尼に寺を創建したときに、行基菩薩に命じて勅願道場として建立した由緒ある古刹とされている。弘法大師がこの地を訪ねているのは弘仁7年(816)のころで、本尊像などを彫造して再興し、現在の寺名を定めたとされている。

その後、他の阿波各地の霊場と同じように栄枯盛衰の運命を歩み、「天正の兵火」(1573〜92)にも罹災、蜂須賀家の帰依を受けて万治2年(1659)に宥応法師によって再建され、現在に至っていると伝えられる。大正2年ころ、両親につれられて参拝した盲目の高松伊之助さんという方が、本尊のご利益により目が見えるようになり、松葉杖を奉納したはなしが語りつがれている。遍路道に面した和様重層の鐘楼門は、むかしの面影を残し堂々とした風格がある。

観音寺の見どころ

夜泣き地蔵・絵馬・天狗久(人形浄瑠璃の人形師名。国府町は人形師を多く輩出している。)

第16番札所 光耀山 千手院 観音寺
(こうようざん せんじゅいん かんおんじ)

宗派
高野山真言宗
本尊
千手観世音菩薩
開基
弘法大師
創建
天平13年(741)
真言
おん ばざらたらま きりく そわか

アクセス情報

所在地
〒779-3123 徳島県徳島市国府町観音寺49-2
電話
088-642-2375
駐車場
普通6〜7台・マイクロバス1台 (午前7時〜午後5時・無料)
宿坊
なし
公式HP
なし

藍住インターチェンジから県道1号線を徳島市内へ行き、国道192号線と合流すると石井町方面へと走っていると看板があるので、それに沿って県道123号線へ。
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薬王山 金色院 國分寺

【御詠歌】
薄く濃くわけわけ色を染めぬれば
流転生死の秋のもみじ葉

庭園

国指定(平成12年)の名勝庭園は本堂東側の枯池式庭園と、四周に石組を配した築山式枯山水庭園からなる。江戸時代後期に大改修され、豪快な石組造形を持つ日本屈指の庭園である。(拝観料300円)※画像1

本堂

重層の入母屋造りで、文化、文政年間(1804〜30) に再建された。聖武天皇、光明皇后の位牌が祀られている。(現在改修工事中、令和2年3月完成予定)※画像2

國分寺の歴史・由来

四国霊場には四県に国分寺があり、その最初の札所が「阿波國分寺」である。仏教に篤く帰依した聖武天皇(在位724〜49)は、天平13年に国家の安穏や五穀豊穣、政教一致、地方文化の向上などを祈って、勅命により全国68ヶ所に国分寺、国分尼寺を創建した。奈良・東大寺はその総国分寺ともいわれる。縁起によると、阿波國分寺には聖武天皇から釈迦如来の尊像と『大般若経』が納められ、本堂には光明皇后のご位牌厨子を奉祀されたと伝えられている。開基は行基菩薩で、自ら薬師如来を彫造し本尊としている。創建当初は奈良の法隆寺や薬師寺、興福寺と同じ南都の学派に属する法相宗であり、寺領は二町四方で、ここに金堂を中心に七重塔も建つ壮大な七堂伽藍が整っていた。この寺域からは塔の礎石などが発掘されており、徳島県の史跡に指定されている。

弘法大師が弘仁年間(810〜24)に四国霊場の開創のため巡教された際に、宗派を真言宗に改めている。その後、「天正の兵火」によって灰燼に帰しており、境内は相当に衰微していた様子が寂本著『四國禮霊場記』(元禄2年=1689)からも知ることができる。寛保元年(1741)に阿波藩郡奉行、速水角五郎によって伽藍が再建されていらい、現在の禅宗・曹洞宗寺院となっている。境内の遺跡から往時の栄華がしのばれる。

國分寺の見どころ

庭園・本堂

第15番札所 薬王山 金色院 國分寺
(やくおうざん こんじきいん こくぶんじ)

宗派
曹洞宗
本尊
薬師如来
開基
行基菩薩
創建
天平13年(741)
真言
おん ころころ せんだり まとうぎ そわか

アクセス情報

所在地
〒779-3126 徳島県徳島市国府町矢野718-1
電話
088-642-0525
駐車場
普通10台・マイクロバス1台(特例) 大型車は入車不可で駐車禁止 午前7時〜午後5時・無料
宿坊
なし
公式HP
なし

藍住インターチェンジから県道1号線を徳島市内へ行き、国道192号線と合流すると石井町方面へと走っていると看板があるので、それに沿って県道123号線へ。
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盛寿山 延命院 常楽寺

【御詠歌】
常楽の岸にはいつか到らまし
弘誓の船に乗りおくれずば

常楽園

昭和30年に戦災孤児のための社会福祉施設として設立、昭和38年、社会福祉法人認可。
1歳から18歳まで の子供たちを支援している。四国霊場ただひとつの児童養護施設。

アララギ大師

本堂右側 の樹周8メートル、高さ10メートルの巨木。糖尿病平癒の祈願をする。

常楽寺の歴史・由来

四国霊場のなかで唯一、弥勒菩薩を本尊としている。弥勒菩薩は56億7千万年の後まで、衆生の救済を考え続けて出現するといわれる未来仏である。とくに京都・広隆寺の国宝で、片膝を立てて頬を右手でささえ考える半跏思惟の弥勒像は、そのやさしいお顔の表情が美しく、お大師さまとともに光明を授けてくれるような仏といえよう。縁起では、弘法大師が42歳の厄年のころ、この地で真言の秘法を修行していたときに、多くの菩薩を従えて化身した弥勒さまが来迎されたという。大師はすぐに感得し、そばの霊木にその尊像を彫造し、堂宇を建立して本尊にした。この本尊について大師は、御遺告の一節に「吾れ閉眼の後、兜率天に往生し弥勒慈尊の御前に侍すべし。56億余の後、必ず慈尊と御共に下生し、吾が先跡を問うべし…」と触れられていることからも、常楽寺への篤い思いが偲ばれる。

後に、大師の甥・真然僧正が金堂を建て、また高野山の再興で知られる祈親上人によって講堂や三重塔、仁王門などが建立されて、七堂伽藍がそびえる大寺院となった。室町時代には阿波守護大名の祈願所にもなっているが、「天正の兵火」により焼失し灰燼に帰している。だが、江戸時代初期には復興、後期の文化15年(1818)に低地の谷地から石段を約50段のぼった現在地の「流水岩の庭」近くに移っている。奇形な岩盤の断層が重なる「流水岩の庭」。自然の美しさにとけ込む魅力を醸し出す。

常楽寺の見どころ

常楽園・アララギ大師・地蔵菩薩像(本堂前。子供の寝しょうべん、夜泣き、歯痛、足の痛みなどの治癒に祈願する。)

第14番札所 盛寿山 延命院 常楽寺
(せいじゅざん えんめいいん じょうらくじ)

宗派
高野山真言宗
本尊
弥勒菩薩
開基
弘法大師
創建
弘仁6年(815)
真言
おん まい たれいや そわか

アクセス情報

所在地
〒779-3128 徳島県徳島市国府町延命606
電話
088-642-0471
駐車場
普通 約10台・無料
宿坊
なし
公式HP
なし

藍住インターチェンジから県道1号線を徳島市内へ行き、国道192号線と合流すると石井町方面へと走り、県道21号線、県道207号線と走っていると看板があります。
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大栗山 花蔵院 大日寺

【御詠歌】
阿波の国一宮とはゆうだすき
かけて頼めやこの世のちの世

ぼけ封じ観音

東に0.7キロほどの新奥の院・国中寺は、お年寄りへの祈祷で知られる。

しあわせ観音

二つの石柱が、山門の前に立っている。数段の石段を上ると、左手にある本堂と右側にある大師堂とが向き合うかたちで建っている。水かけ子安地蔵と観音像が本堂と大師堂を行き来する参拝客を見守っている。
その境内の中央に「招霊」木(おがたまのき)が根を張っている。縁起木を笠のように「しあわせ観音」像がひときわ目を引く。合掌する手の中で、蓮を持って笑み「しあわせ」を与えている。※画像2

大日寺の歴史・由来

徳島市には5ヶ所の霊場がある。そのいちばん西部で鮎喰川を渡った平地にあり、車の往来が激しい県道の反対側が、かつて阿波の総鎮守であった一の宮神社となっている。開基は弘法大師とされ、縁起によると「大師が森」というこの地で護摩修法をされていたさいに、空中から大日如来が紫雲とともに舞いおり、「この地は霊地なり。心あらば一宇を建立すべし」と告げられた。大師は、さっそく大日如来像を彫造して本尊とし、堂宇を建立し安置したと伝えられている。寺名の由来もこの縁起による。境内は老樹に覆われ、密教寺院の雰囲気を漂わせているが、戦国時代には「天正の兵火」により堂塔はすべてが罹災している。その後、江戸時代の前期に阿波3代目藩主、蜂須賀光隆公により本堂が再建され、諸国に国の総鎮守・一の宮が建立されたときには、その別当寺として同じ境内にあり、管理に当たっていた。

ただ、一の宮の本地仏は行基菩薩作の十一面観音像とされており、同じ境内であったため、江戸時代には一の宮神社が札所であり、納経所として参拝されていたようである。このことは真念著『四國邊路道指南』(貞享四年・1687)にも記されている。その後、明治の神仏分離令により神社は独立し、一宮寺は大日寺ともとの寺名に変えたが、もともとこの寺にあった大日如来像は脇仏となり、十一面観音像が本尊として祀られている。 日本人の心には仏と神が融和している。遍路は大師の御心を慕い歩みつづけている。

大日寺の見どころ

ぼけ封じ観音・奥の院・建治寺・しあわせ観音(樹齢100年をこえる 巨木の側にあり、合掌している極彩色の小さな観音像。幸せの願いを祈る。)

第13番札所 大栗山 花蔵院 大日寺
(おおぐりざん けぞういん だいにちじ)

宗派
真言宗大覚寺派
本尊
十一面観世音菩薩
開基
弘法大師
創建
弘仁6年(815)
真言
おん まか きゃろにきゃ そわか

アクセス情報

所在地
〒779-3132 徳島県徳島市一宮町西丁263
電話
088-644-0069
駐車場
普通車であれば15台、マイクロバスであれば10台、大型車であれば8台・無料
宿坊
あり(150人)
公式HP
http://dai13.jp/
公式SNS
facebook

藍住インターチェンジから県道1号線を徳島市内へ行き、国道192号線と合流すると石井町方面へと走り、鮎喰川沿いの県道21号線を進んで行くと右手にあります。
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摩廬山 正寿院 焼山寺

【御詠歌】
後の世を思えば恭敬焼山寺
死出や三途の難所ありとも

三面大黒天

中央が大黒天、右面が毘沙門天、そして左面が弁財天の像。本堂左横のお堂に安置。※画像1

杖杉庵

四国遍路の元祖・右衛門三郎が終焉したと伝えられる地に建てられたお堂。境内から車道1.6キロほど下ったところの番外霊場。※画像2

焼山寺の歴史・由来

焼山寺山(標高938メートル)の8合目近くにあり、四国霊場で2番目に高い山岳札所。剣山や白髪山など四国山脈の山々がひろがる眺望はすばらしい。四国霊場には「遍路ころがし」といわれた札所がいくつかあるが、焼山寺もその一つで、昔から嶮しい坂道の難所を辿る「修行の霊場」であった。いまは山上まで車道が通っている。縁起によると、飛鳥時代に役行者が山をひらいて、蔵王権現を祀ったのが寺のはじまりとされている。ところが、この山には神通力を持った大蛇が棲んでおり、しばしば火を吐いて農作物や村人たちを襲っていた。弘仁6年ころ、弘法大師がこの地に巡られた時、一本杉で休んでいた処、阿弥陀様があらわれた夢を見た。目を覚ますと目の前が火の海になっている。そこで麓の垢取川で身を清めて山に登ると、大蛇は全山を火の海にして妨害した。大師は「摩廬(水輪の意)の印いん」を結び、真言を唱えながら進んだのだが、大蛇は山頂近くの岩窟で姿をあらわした。

大師は一心に祈願し、虚空蔵菩薩の御加護のもと岩窟に封じ込めた。そして自ら彫られた三面大黒天を安置し被害を受けていた民家の大衆安楽、五穀豊穣を祈った。また山は「焼山」となってしまったので大師が「焼山寺」と名付けた。「摩廬」の山号も「焼山」の寺名も、こうした奇異な伝説に由来しており、鎌倉時代の後期には後醍醐天皇(在位138〜39)の勅願所となっている。境内は樹齢数百年の杉の巨木(県の天然記念物)が並び、巡礼者を迎えている。

焼山寺の見どころ

三面大黒天・杖杉庵・神山町(徳島県の特産であるウメやスダチの産地。)

焼山寺の年中行事

正御影供
日時:旧3月21日
こもり法要
日時:8月30日
大般若会
日時:秋の彼岸中日

第12番札所 摩廬山 正寿院 焼山寺
(まろざん しょうじゅいん しょうさんじ)

宗派
高野山真言宗
本尊
虚空蔵菩薩
開基
役行者小角
創建
弘仁6年(815)
真言
うぼう あきゃしゃ きゃらばや  おん ありきゃ まりぼり そわか

アクセス情報

所在地
〒771-3421 徳島県名西郡神山町下分字中318
電話
088-677-0112
駐車場
各車種あわせ70〜80台(普通車/300円・ワゴン車/500円・大型車/1,000円)
宿坊
あり(30人・山上のため必ず予約ください)
公式HP
なし

11番藤井寺より192号を経て、石井町経由し県道20号線を利用すると便利。
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金剛山 一乗院 藤井寺

【御詠歌】
色も香も無比中道の藤井寺
真如の波のたたぬ日もなし

藤の古木

大師が悪疫退散の祈願のあとに
お手植えしたと伝えられ、4月下旬から
5月上旬にかけ五色の藤が咲きほこる。
(撮影時4月上旬)※画像1

雲龍の天井画

本堂。昭和52年、地元出身画家の作で30畳ほどの巨龍。※画像2

藤井寺の歴史・由来

全長236キロ、四国最大の吉野川が阿波の北部を貫流している。阿波中央橋を南に渡り、およそ3キロの山麓に十一番霊場の山門が見えてくる。三方を山に囲まれ、渓流の清らかな仙境に心を惹かれた弘法大師が、この地で護摩修法をされたのは弘仁6年のことと伝えられている。大師は42歳の厄年に当たり、自らの厄難を祓い、衆生の安寧を願って薬師如来像を彫造して、堂宇を建立した。その地からおよそ200メートル上の8畳岩に、金剛不壊といわれる堅固な護摩壇を築いて、一七日間の修法をされた。その堂宇の前に5色の藤を植えたという由緒から、金剛山藤井寺と称されるようになった。

寺は、真言密教の道場として栄え、七堂伽藍を構える壮大な大寺院と発展した。だが、天正年間(1573〜92)の兵火により全山を焼失、江戸時代初期まで衰微した。その後、延宝2年(1674)に阿波藩主が帰依していた臨済宗の南山国師が入山して再興し、その折に宗派を臨済宗に改めている。天保3年(1832)に再び火災に遭い、本尊以外の伽藍はすべて灰燼に帰した。現在の伽藍は、万延元年(1860)に再建されたもの。本尊は、「厄除け薬師」として親しまれており、国の重要文化財に指定されている。藤井寺から次の十二番・焼山寺までは、往古の姿を留める「へんろ道」が通じている。弘法大師が修行中に休息したという遺跡や石仏、標石が残される貴重なへんろ道である。

藤井寺の見どころ

藤の古木・雲龍の天井画・遍路ころがし(次の12番札所までは細く嶮しい山道で約13キロ。男8時間、女9時間かかるといわれる遍路の難所。)

第11番札所 金剛山 一乗院 藤井寺
(こんごうざん いちじょういん ふじいでら)

宗派
臨済宗妙心寺派
本尊
薬師如来(伝弘法大師作)
開基
弘法大師
創建
弘仁6年(815)
真言
おん ころころ せんだり まとうぎ そわか

アクセス情報

所在地
〒776-0033 徳島県吉野川市鴨島町飯尾1525
電話
0883-24-2384
駐車場
門前に「本家ふじや」の駐車場がある 問い合わせ電話:0883-24-2907 参拝時間:300円/1日 500円
宿坊
なし
公式HP
なし

土成インターチェンジから、国道318号線を左折して鴨島方面へ進み、阿波中央橋を渡り、国道192号線との突き当たりを左折。鴨島郵便局手前の信号を右折して道なりに進むとたどり着きます。
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得度山 灌頂院 切幡寺

【御詠歌】
欲心をただ一筋に切幡寺
後の世までの障りとぞなる

山麓から本堂まで

約800メートル。333段の石段があり、女厄坂、男厄坂を上り切ると本堂。※画像1

切幡寺大塔

国指定重要文化財である切幡寺大塔。
初重と二重の間が方形で、日本唯一の構造様式。豊臣秀頼が秀吉の菩提を弔うため建立、明治6年に大阪の堺にある住吉大社神宮寺から移築し、完成に10年を要した。※画像2

切幡寺の歴史・由来

切幡山の中腹、標高155メートルに境内がある。国指定重要文化財である大塔からの眺望はすばらしく、眼下には吉野川がゆったりと流れ、前方には四国山脈の雄大な山々が連なる。古く、この山麓に機を織る乙女がいた。ここで修法していた弘法大師は、結願の7日目、綻びた僧衣を繕うために布切れを所望された。乙女は、織りかけていた布を惜しげもなく切って差し出した。大師は、この厚意にたいへん感動し、「何か望みはないか」と尋ねた。乙女は、「父は都で薬子の変に関係して島流しとなり、母は身ごもっていたが、男の子が産まれればその子も咎を受ける。どうか女の子が産まれるようにと、清水の観音様に祈願し、やがてこの地に来て産まれたのが私です」といい、「亡き父母に代わり、観音様をつくってお祀りし、わたしも仏門に入って精進したい」と願いを告白した。

大師はつよく心を打たれ、さっそく千手観音像を彫造し、乙女を得度させて灌頂を授けた。乙女はたちまちのうちに即身成仏し、身体から七色の光を放ち千手観音菩薩に変身した。大師は、このことを時の嵯峨天皇に伝え、天皇の勅願により堂宇を建立して自ら彫った千手観音像を南向きに、また即身成仏した千手観音像を北向きに安置して本尊にしたと伝えられる。得度山、灌頂院、切幡寺それぞれの名称もこうした由縁による。麓は、巡礼用具店などがならぶ門前町となっている。「女人即身成仏の寺」として知られ、七色の光を放つ善女に憧れる女性からの人気が高い。

切幡寺の見どころ

山麓から本堂まで・切幡寺大塔(国重要文化財)・はたきり観音(乙女が即身成仏して観音さんに化身した銅像。右手にハサミ、左手に長い布をもつ。)

切幡寺の年中行事

  • 春季初岸中日大法会・・・3月21日(中日)
  • 秋季初岸中日大法会・・・9月23日(中日)
  • 八大龍王宮秋祭・・・10月(第3土曜日)

第10番札所 得度山 灌頂院 切幡寺
(とくどざん かんじょういん きりはたじ)

宗派
高野山真言宗
本尊
千手観世音菩薩
開基
弘法大師
創建
弘仁年間(810〜824)
真言
おん ばざらたらま きりく

アクセス情報

所在地
〒771-1623 徳島県阿波市市場町切幡字観音129
電話
0883-36-3010
駐車場
下の境内に普通20台 (中・大型は進入不可) 午前7時〜午後5時・無料
宿坊
なし
公式HP
なし

土成インターチェンジから左折して、国道318号を鴨島方面へ進み、県道12号線(鳴門池田線)を市場町方面へ進み切幡変電所を右折すると標識がでているので道なりに進んで行くとたどり着きます。
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正覚山 菩提院 法輪寺

【御詠歌】
大乗のひほうもとがもひるがえし
転法輪の縁とこそきけ

本堂

本尊である涅槃釈迦如来像は釈尊入滅の時の姿をあらわす。そのお姿は、頭北面西と言い、頭を北向きに、顔を西向きにして横たわっている。北枕の語源となっ たお姿である。自身の入滅をもって、まさに諸行無常の教えを説いている。釈尊入滅後、その教えは三国を伝来し、ついには弘法大師空海へと繋がる。「一切衆生に仏性あり」我々は皆、成仏することが可能である。四国遍路とは、自身の持っている仏の種に水をあげる修行である。※画像1

わらじのお守り

むかし、松葉杖なしでは歩けなかった人が参拝にきたとき、参道の真ん中あたりで足が軽くなり、松葉杖なしでも歩けるように完治したという伝えがあり、本堂にはたくさんの草鞋が奉納されている。健脚祈願「足腰お願いわらじ」は納経所で。

法輪寺の歴史・由来

古くは「白蛇山法林寺」と称され、現在の地より北4キロほど山間の「法地ヶ渓」にあって、壮大な伽藍を誇っていたと伝えられる。その礎石や焼土がのこっており、これは天正10年(1582)の戦乱のさいに長宗我部元親による兵火で焼失した遺跡である。縁起によると、弘法大師がこの地方で巡教されていたときの弘仁6年、白蛇を見つけた。白蛇は仏の使いであるといわれていることから、大師は釈迦の涅槃像を彫造し、本尊として寺を開基したとされている。涅槃釈迦如来像は、北枕でお顔を西向きに、右脇を下に寝ている涅槃の姿を表しているが、そばの沙羅双樹は白く枯れ、釈迦を慕い嘆き悲しむ羅漢や動物たちの像も安置されている。開帳は数年に1度で、次回は2020年2月15日に行われる予定である。

現在地に移転し、再建されたのは正保年間(1644〜48)で、当時の住職が「転法林で覚をひらいた」とされ、山号と寺名をいまの「正覚山法輪寺」と改めた。しかし、安政6年(1859)にまたしても罹災している。これは村人が浄瑠璃芝居の稽古をしていた際に、堂内から出火したと伝えられ、鐘楼堂だけを残して全焼した。明治時代になって再建されたのが現在の堂塔である。寺宝に「弘法大師御御衣」が伝えられている。高野山奥の院で入定されている御衣替えの恒例にちなんで、明治15年(1882)、明治天皇が法輪寺に下賜されたものである。

法輪寺の見どころ

本堂に奉納されたわらじのお守り

法輪寺の年中行事

本尊御開帳
日時:数年に一度

第9番札所 正覚山 菩提院 法輪寺
(しょうかくざん ぼたいいん ほうりんじ)

宗派
高野山真言宗
本尊
涅槃釈迦如来
開基
弘法大師
創建
弘仁6年(815)
真言
のうまく さんまんだ ぼだなん ばく

アクセス情報

所在地
〒771-1506 徳島県阿波市土成町土成字田中198-2
電話
088-695-2080
駐車場
普通50台・又はマイクロバス30台・又は大型10台・無料
宿坊
なし
公式HP
なし

土成インターチェンジから、国道318号線を鴨島方面へ進み、県道12号線を脇町方面へ進んでいると看板がでているので道なりに進んで行くとたどり着きます。
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